『おさいが何もありませんが……』 『澤庵をどつさり、大切りにして入れておいて呉れ。』 それらを新聞紙に包んで抱へながら裏木戸から畑の中へ出た。 畑つゞきにその山の麓まで私の家から五丁と離れてゐないのだ。畑には大抵百姓たちが出てゐた。麥は穗を孕(はら)み、豌豆には濃い紫の花が咲いてゐる。附近の百姓家からでも來るのか、そんな畑の中にも櫻の花片の散つてゐるのが見られる。古い寺の裏を通りすぎて登りかゝる道はこの海拔六百六十尺の小山に登る四つ五つの道のうち、最も嶮しい道である。然し、それが私の家からは一番近い。 小山ながら海寄りの平野に孤立して起つた樣な山なので、この頂上からは四方の遠望が利く。北東には眞上に富士が仰がれる。が、その山の形よりその裾野の廣いのを眺めるのに趣きがある。次第高になつてゆく愛鷹(あしたか)と足柄(あしがら)との山あひの富士の裾野がずつと遠く、ものゝ五六里が間は望まれるのである。然し、その日は私は頂上まで行き度くなかつた。其處ではどうしても氣が散りがちであるからだ。そして中腹の、やゝ窪みになつた所に行つて新聞包を置いた。 其處には矢張り他の場所と同じく一面の小松が生えて、松の下には枯草が程よく地を覆うてゐる。よく私の行く所なので多分私が吸ひすてたに相違ない煙草の吸殼などが枯草のかげに落ちてゐる。蜜柑の皮の乾びたのも見えた。其處からは海を見るに都合がいゝ。ことに廣い駿河灣一帶よりも直ぐ眼の下に見える江の浦の細長い入江を見るに恰好(かつかう)な所に當つてゐる。 『やれ/\』 何といふ事なく獨り言を言ひながら、私は其處につき坐つた。そして煙草に火を點けた。 入江を越した向うの伊豆の連山には重い白雲が懸つてゐた。上は濃く、下は淡く、そしてその淡いところだけがかすかに動いてゐる樣に見えた。山かげの入江の海はいかにも冷たく錆び果てて、何處をたづねても小波ひとつ立つて居やうとも思はれなかつた。不思議とまた、いつもは必ず二つか三つ眼につく發動船も小舟も一向に影を見せなかつた。入江に沿うたこちら側の長い松原の蔭には萼ばかりが散り殘つてゐる樣な桃の畑が濕り深い空氣の中に氣味惡い赤味を帶びて連り渡つてゐた。 ふところから小さな壜を取り出すと、一二杯續けてウヰスキーを飮んだ。重い曇りの底を吹くともなく吹いてゐる風は、ことに山の上だけに相當に寒かつた。一杯二杯と續けてゐるうちに、ぽつりと冷たいものが額に當つた。氣をつけると袖にも足袋にも小さな雨が降つてゐる。然し眞上の空は青みこそ無けれいかにも明るく晴れてゐるので、私はそのまゝぼんやりと海を見ながら盃をなめてゐた。幾らかづつつてゆく酒の醉は次第に心を靜かにし、眼さきを明らかにしてゆくのであつた。 が、終(つひ)にあたりの葉の深い松の木を探してその蔭に引込まねばならなかつた。急に雨の粒が大きく荒くなつて來たのである。然し、一度落ち着いた心持を撥(はじ)き立てるほどの降りかたでもなかつた。松の蔭に入ると、惜しいことには海は見えなくなつた。そして、小松のことで、眞直ぐにしやんと坐つてゐることも出來なかつた。前くぐみになりながら片手に持つた小壜の酒は不思議な位ゐ減りかたが遲かつた。壜を持つたまゝ、片手で新聞包を開いて澤庵をつまみ握飯にも手をつけるのだが、それでもなか/\盡きなかつた。 次第にあたりの松の葉が濡れて行つた。それ/″\の小松のそれ/″\の枝のさきにはいづれにも今年の新しいしん[#「しん」傍点]がほの白く伸びてゐる。淡い緑のうへに白い粉を吹いた樣なその柔かなしん[#「しん」傍点]のさきにはまた、必ず桃色か紅色の小さな玉が三つ四つづつ着いてゐた。露ほどの大きさで紅色の美しいのもあり、既に松かさの形をして紅ゐの褪(あ)せてゐるのもあつた。それに微かに雨がそゝいでゐるのである。また、枯草の中には眞紅なしどみの花が咲いてゐた。濡れた地べたにくつ着いたまゝ、勿體(もつたい)ない清らかな色に咲いてゐる。 帽子のさきに垂れてゐる松の葉のさきからぼつり/\と雫が垂りだした。まだ然し羽織の袖は充分には濡れて來ない。幾度かすかして見る壜の底にはまだ少量の酒が殘り、寧ろ海苔の握飯の方が先に盡きかけた。心はいよ/\靜かに明るく、あたりの木も草も、眞直ぐに降る山窪の雨の白さも、みな極めて美しい眺めとなつて來た。 『燕!』 私は思はず聲に出して、自分の前の山合にまひ降りてはまた高くまひ上つてゆく小さな鳥に眼をとめた。まつたくそれは今年初めて見る燕の鳥であつた。 『來たなア』 さう思ひながら私は松の蔭に這ひ出して行つた。 一羽、二羽、三羽と續いてその身輕な鳥は眞青な小松の原を渡つてゐるのだ。 幸ひと雨は晴れて來た。急に輝いて見える伊豆の山の白雲の蔭の海の色は山の根だけ日本刀の峰などに見る青みを宿し、片側の廣い部分にはさら/\として細かな波を立て始めてゐた。